まぁ、お楽にしていて下さいよ、と和寅の奴はそう言って引っ込んじまった。
そりゃあ、勝手知ったる所だから、今更遠慮もヘチマもねぇんだが。
「……くそ」
いつまでもぼーっと突っ立っているワケにもいかねぇから、
俺はいつもの長椅子へ腰を———いつもよりも確実に浅く———下ろして、そっと襟元をかき合わせて、背中を丸めて身体を縮こませていた。
別に寒いからじゃない。
外は(と、ここで思い出して俺は窓の外を見た)快晴、さわやかすぎる五月の青空がそこにある。
そして———さや、と風が部屋の中へと入り込んできた。
風は、冷たくもなく暑くもない。
多分、心地良い風なんだろうが、今の俺にはそれを感じる余裕がない。
この丸腰の状態で、素足を風に撫でられるのは勘弁してほしい。
「〜〜〜〜〜」
足元から風が体に這い上がってくる、その気色の悪さ。
ゾゾゾと顔を引きつらせて反射的に俺は足を持ち上げていたら、ばたん!と派手な音が事務所中に響き———俺を固まらせた。
「あぁアァアああああ〜〜〜〜〜〜〜っっ!」
そして、何とも言えない高い雄叫びが続く。
その音を確かめる勇気も、今の俺にはない。
それに、振り返って確かめなくても判っている。
そこにあるのは、礼二郎の私室へと通じる扉であるのだ。
すなわち———
「まったく、煩いぞ和寅!ゆっくり寝ても……」
その声は途中で途切れていた。
実に珍しい事だ———なんて言ってる場合じゃねぇ……よな。
「いられない、じゃない……か?」
当然、そこから現れたのは礼二郎で。いや、礼二郎以外の人間が出てこられても困るんだが、その礼二郎が———あきらかに戸惑いの声を発している。
「おい、そこにいるのは……」
「うん」
「木場修、だな?」
「……おう」
恐る恐るといった具合に、礼二郎が言葉を重ねてきた。俺も観念して肩越しではあるが、背後へ、礼二郎へと視線を移す。礼二郎は、寝癖は酷いが比較的マトモな格好で扉の前に立っている。しかし———でかい目をさらにでかくして俺を見ていた……なんというか、完全に珍しく呆然としている。いや、長年の腐れ縁だが、コイツのこうしたツラを拝むのは初めてかも知れない。
「お前、何をやってるんだ?」
「何をって……まぁ」
色々あってな、と俺は言葉を濁せば、礼二郎は眉間に皺を寄せて、さらにそこへ指を置いて〈探偵〉席へと移る……まぁ、そのキモチは判らなくもねぇ。なにしろ大の男が朝っぱらから緋襦袢一枚で、事務所に座っているなんざ———あるイミ正気の沙汰じゃねえんだから。
「何が色々だ……」
礼二郎はあきれ果てた声をだして、机の上へと突っ伏せば、俺は黙って、ぴらぴらする襦袢を体に巻き付けるしかない。
「よりによって、その格好はなんだ?」
「……手前のモンだろ、コイツは」
いつだったかの夏に羽織っていたじゃねえか、と俺は言ってはみたが、聞く耳をもつ礼二郎じゃない。
◇□◇
「だぁって、驚くじゃないですか。今日も一日気合いこめて労働するぞー!と思って事務所に来たらですよ、木場さんが何でか知らないけど、緋襦袢羽織って座ってるんですよぉ?赤いのがヒラヒラしてるから、オジさんが女の人でも引っ張り込んだかと思っちゃいましたけど……あれ?でも緋襦袢ってご婦人用ですよねえ。なんでそれがあるんでしょ?」
「なんでって、聞かれても知らないよう。やっぱりなんかあったんじゃないの?」
「はぁ。でもあれはご婦人のそのう……下着な訳でしょ?それが残ってるって事は……!」
「あー、はいはい。益田ちゃん、落ち着いてよう。自分の言ったコトバに興奮しないの。お茶じゃなくって砂糖水の方がよかったかなぁ?」
「いっ、いえっ……だ、大丈夫ですっ」
はいっ、と妙に元気よく益田ちゃんは言うけれど、なにが大丈夫なんだろうねぇ。ま、あえてここはオトナとして聞き流しておくけど。
気抜けた五月の昼下がりに、珍しい客が珍しくもないハナシを持ってやって来た。でも、ま『司さぁん、ちょっと聞いてくださいよう〜』だなんて入って来るなり可愛らしいコト言ってくれる奴も珍しいからね———と思いつつ、とりあえずはお茶を入れながら、そのハナシの続きを聞いている。物好きといわれたらそれまでだけどさ。ま、丁度ヒマしてたし。
「で、朝っぱらから修ッ公がそんなカッコで神田にいたんだ。益田ちゃん、よく見つからなかったねー」
「僕は裏口っていうか、勝手口使うようにって、和寅さんに普段から躾けられてるもんですから」
「あー、やっぱり。相変わらず融通が利かないんだねー」
「ですから、そのう———僕は別にのぞき見をしようとしてたワケじゃなくってですね」
「出るタイミングを逃しちゃった、と」
「そぉなんですよ!それでまぁ聞くとはなしに」
「見るとはなしに?」
「はい。不可抗力で目撃者になっちゃったんですよう」
ううう、と益田ちゃん、今度は泣きの芝居を入れてきちゃったけど———なんか本当にこのコ、転職先間違ってしまったんじゃないかなあ?今更だけど。
「で、愚痴の掃き出し口が僕なワケ?」
「すみません……他、適切な所が思い浮かばないもんで」
「んー、まぁそのキモチはわかるよう。いいよ、僕もまあ修ッ公の言う『腐れ縁』の一つだし?」
「そう言って戴ければありがたいです……そりゃ、中禅寺さんや関口センセもいるんですけど」
あの二人だとねーと、益田ちゃんは唸っている。
「全然興味なさげな顏しながら、こっちの言う事を全部憶えてるか、全然違う方向へ発展させるかですもん。まわりまわって、オジさんはともかく(あの人は気にもしないでしょ)木場さんの耳に入った時の方がコワイです」
「やっちゃったの?」
「いえ、そんな命知らずなコトはしてませんって。これは僕の野生の勘なんですケドね……」
これでも色々と経験値は積んでるんすよ、とひどくマジメな顏をして益田ちゃんは言った。うーん、これだと茶化す事もできないな。それに、その〈野生の勘〉とやらは正しいわ、多分だけどね。
「それにですね、木場さんたら香水のニオイをぷんぷんさせてたんすよー!事務所から台所まで匂うぐらいに!」
「へえー、それは朝から艶っぽいコトで…って、え?」
「え、じゃないっすよ、司さん…」
ですからぁ、と益田ちゃんはなぜか声を落として言葉を続けてくる。
「匂ったんすよ。木場さんから、そりゃあもういい匂いが!」
「…うっそでしょー、よりによって修ッ公から?」
「司さんに嘘を言っても意味ないでしょー言ったじゃないですか、僕が最初オジさんが女の人連れ込んだんじゃないかって……」
色と匂いで判断したんすよ!となぜか益田ちゃんはここぞとばかりに胸を張って言うんだけど。しかし、なんだって修ッ公の奴、そんな格好してそこにいたんだろ。ああ見えても、だらしない格好は出来ない奴なんだけどなぁ?
◇□◇
「ちょっ……旦那。どうしたんですか、一体?」
「どうしたって……なにがだ?」
俺が顔を見せた途端、和寅の表情が急に引き締まり、小声で俺に荒い言葉を投げてきた。その普段とあまりに違った様子に、面食らっていると、ぐいぐいと俺の手を引っ張り出す。
「お、おい?なにをする!」
「なにを、じゃないですよ。とにかく、こちらへ」
「え?おいっ、和寅?」
そして、風呂場の方へと俺は引き込まれていた。
普段なら、午前中に顔どころか、足を向けることもない神保町の礼二郎の所へ行ったのは———それなりに理由があっての事だ。だが、それはあまりにも、そしていつにもまして自己中心的な理由だった。
「ちっとばかり考え無しすぎやしませんかね?」
「……まぁ、そうかも知れねえな」
思い当たるフシは確かにある。それにしても、なんだって和寅の奴はいきりたってんだ?
「とりあえず———説教は後にしてくれねぇか?」
「説教なんかじゃありませんよ。人としてどうか、と言いたいんですって!」
よく解らないが、妙に大きく出てくるな、コイツ。何か悪いモンでも喰っちまったのか?
「それを説教って言わねぇか、普通は……」
俺は眉間に手をやって、息をつく。段々と頭がクラクラするのは、徹夜明けのせいじゃないだろう。
「そうかも知れませんけれどね……何と言うのかな、ヤボな事はいいたかありませんが」
「おい、ヤボって何だよ」
「ですからぁ……いや、もういいです」
ええ、もう何もいいませんよ、あっしは———となぜか和寅は投げやりな口調となっていった。
「お湯の用意と……洗濯も必要ですなぁ」
脱いじゃってくださいよと、和寅に言われるがままに俺は従う事にした。
「ん……」
ここで、おいどうしたんだ———とでも訊いてやるべきだったんだろうが、もうそこまで気を回す余裕はなかった。それに、神田に来た目的が叶いそうだから、どうでもよくなっていたと言ってもいいだろう。本当に勝手な話だが。そして、俺の身勝手さは、あっという間に跳ね返ってきた。
「とりあえず、こちらを」
「〜〜〜!」
おい、嫌がらせか?と言いたくなるのを、寸前でこらえた。考えてみたら、嫌がらせをされてもおかしくない事を日頃からやっている。
しかし、なんだって和寅の奴はピリついてんだろ。ま、考えたって仕方がねぇか……
◇□◇
「で、修ッ公がいい匂いさせてた、と」
「えぇ、まあ和寅さんは『趣味が悪い』ってけなしてましたけど。そこまでどうして言えるんでしょうかねー」
「まぁ、和寅だからね、あいつお屋敷で躾けられてるからさぁ」
「はぁ……そーゆーもんなんですか?」
「そーゆーモンだよう。無意識ってコワイよねー」
ま、誰かさんと同じなんだよね、と後の言葉は続けずに僕のキモチの中で納めておいた。益田ちゃんは、複雑な表情しているけど、まぁ理解できる時は近いと思うよ。
「……で、なんというか、どーしたものやらと思案していた所にですよ、和寅さんが忽然と出てきまして」
さっきの趣味が悪いって話になったんですわ、と益田ちゃんは話を続ける。
「洗濯物持って、まあいつものおきまりのカッコでしたけど。だけど、抱えている洗濯物からいい匂いしてましたから、あれは木場さんの服だったんだろうなぁ」
「あぁ、それで緋襦袢なワケね……」
和寅の奴もやってくれるじゃない。せめてもの抵抗、かな?
「で、『なに朝っぱらからぼーっと突っ立っているんですかい?』ってね、言われちゃったんです」
「やれやれ、そいつはキビシイや」
「そぉなんですよ!確かに戸口の所にいましたけれど、仕方がないでしょお?ヘンなモノを見ちゃってるんだし。それにこれでも僕ァ色々と考えていたんすから」
もっとも、もう何を言われようとも平気になってきちゃいましたけどね、と益田ちゃんは肩をすくめている。まあ、そう荒まないの、と言ってはみるけどさ、これは慰めにもならないだろうな。
「で、僕は和寅さんに伺ってみたんですよ。あれは一体何事なんですか、と。そしたらですねえ———」
「見ればわかるでしょ?」
「見てもわからないんですけど?」
「だったら、察することはできませんかね、益田君!」
「察する、ですか?」
とまぁ、ヒソヒソとなぜか小声で事務所覗きながら、話してたわけですよ。
「察する、ねぇ。難しいことを言うじゃないの、和寅の奴も」
「ええ、まったくその通りで」
だから僕は素直に伺いました。なんでしょうかって———そしたら!
「見たらわかるでしょ!それにこのニオイ!まったく旦那ったら、朝帰りの汗落としに寄ったんですよ」
「あっ、朝帰りのあ、汗って……!」
その言葉でなにもかもがぶっ飛びました、はい。
「浮気調査のエキスパートがなにを言うんだよう?」
「いやあ、まったくのビジネスだったら、何があっても驚かない自信はありますけどねえ、ちょっとばかりその人となりを知っているとなると———そうはいきませんて。つまり……身近な人の情事となりますとねぇ」
はっはっは〜と益田ちゃんは照れ隠しのように笑ってる。ま、そのキモチは解るけど。
「それにしても、和寅の奴も言い切っちゃうとはねぇ」
「仕方がないんじゃないですか?みごとな状況証拠が揃ってるんですし」
まあ限りなく黒に近いでしょ、と続けてくる。
「ま、そうかも知れないけどね。で、益田ちゃん」
「はい?」
「エヅは出てきたの?あいつ———いたんでしょ?」
「ええ、おられたとは思いますけど———和寅さんに追い出されまして」
「追い出されたぁ?」
また、妙な事を言い出すよ、この子は。あぁ、でもそれでここに来たワケか。なるほどね。
「いや、ですから———『先生がおめざになったらシャレならない』とか言うんですよ、和寅さんてば」
「あー……はいはい」
確かにね、そうかも知れないな……それが本当に『朝帰り』だったとしたら、ね。
「で、和寅さんの迫力に負けて出てきたんですけれど」
「ま、賢明な判断じゃない?修羅場は見たくなかったでしょ?」
「そりゃあ、まぁそうです……あれ、なんでそこで修羅場なんてコトバが出てくるんすか?」
キョトンとした顔で、益田ちゃんは言ってくる。
「そうだ、和寅さんだって妙な事を言いましたね。シャレにならない、だなんて……どういうコトなんです?」
「ん、そりゃあさぁ」
「はいっ!」
「……元気、いいねぇ」
益田ちゃん、思い切りくらいついて来たんだけど?まあ、色々と空気は読めるかぁ……だったらこっちも出方を考えないと。
「いや、はぐらかさないでくださいよ。色々と———ご存じなんでしょ?あのふたりについては」
で、何があるんすか?と興味津々で聞いてくる。
「そりゃあね。で、ここしばらく神田には顔を出してた?」
「いや、ご無沙汰でしたねー」
「それじゃあ、エヅは拗ねるでしょ。久々に顔出してくれたと思ってもさ、自分だけ遊んできたと解るとねー」
そう言っているうちに、なんだか色々と見えてきたような気がしてきた。こっちの界隈で、いろいろと賑やかになってたっけ———ヤクの売人が消えたか消されたかで、そのイロが関わってるとかいないとか……って。ま、珍しくもないハナシだけど、そいつが消されちゃってるなら修ッ公の出番で、色々と聞き込みに働いているのか、な?
「はぁ、そう出ますかね」
「出るよう、だってエヅだもん。で、あいつは———」
「木場さんにつかみかかる、と」
「はぁい、よくできましたー。わかっているじゃないの、益田ちゃんもさ」
「……解りたくもない事ってやっぱりありますよぅ、司さん」
恐ろしい事を言わないでくださいよーと益田ちゃんは続けているうちに、自分の言ったことを理解したみたいだった。
「だ、だから……ですか?」
「そ、恐ろしい、でしょ?」
そう言えば、こくこくと大人しく益田ちゃんはうなずいた。ま、そこまでビビらなくてもいいんだけれどね、本当は。でも、馬に蹴飛ばされるシュミはないんだけど———ネタ拾っておいて、エヅに恩を売るのも……アリといえばアリ、かな?
「……司さん、どうしたんです?」
「いや……別に———じゃないな。益田ちゃん、バイトしない?手当は弾むからさ」
「へ、なんすか?バイトって」
「ま、ちょっとしたコトだよう」
さ、いってみよーかと、つとめて気楽に立ち上がる。修ッ公へのネタ拾いと言わないのは———僕のズルイ所だけど。
◇□◇
いつまでも机の上に転がっている訳にもいかない。仕方がないから、ゆっくりと体を起こしてみるんだけと、妙に頭がクラクラするのはどうしてだろう?
「ん〜〜〜」
眉間をまた押さえてみると、ひどく皴を寄せていることに気がついた。駄目だ駄目だ!京極のようにクセになっちゃったら、困るじゃないか!そこを擦りながら机に肘をついて、応接の方へと目をやれば、木場の奴が緋襦袢を着て座っている。うん、これはどうやら現実らしいが……?
「旦那!お待たせしやし……うわああっ!」
「うるさい、和寅!」
「せ、せんせい?いつ———おめざに?」
「僕が目覚めて悪いとでもいうのか、お前」
「いっ、いえ!そそそそんな、滅相もない」
和寅が相変わらずの調子で事務所へと入ってきた。
「大体、お前がガタガタと騒がしいから寝ていられなくなったんじゃないか!お前、もう少し静かに動くコトは出来ないのか?」
「は、はぁ。申し訳ありやせん」
文句を言えば、しおらしく和寅は頭を下げてくる。わかればいいんだが———どうなんだろうなぁ。少々がさつでございますが、と和寅のオヤジは言っていたが、少々どころじゃないぞ?でもまあ、そこさえ目をつぶれば使えない事はないから、とりあえず我慢はしておくけれど。
「おい、そんな風に言ってやるなよ」
「修ちゃん?」
「騒がしくしたのは、俺のせいなんだし」
ぽつりと、木場が横顔を見せたままで言葉を落とした。ぎゅっと自分の体を抱き込むようにして、椅子に浅く座っている———普段とまったく違った姿で言っていた。
「ふん、そうお前が言うんならな。それにしても……!」
どうしたんだ、と続けようとしたら、お約束のように視界が揺らぐ。そうして———視えてくるのは、一枚の写真?それとやけに薄暗い場所に、女の姿がひとつ……?
7)
「あ」
ここに至って、妙に頭がクラクラする原因を理解する。紫煙と酒と———香水のニオイが事務所に充満しているからだ、と。そして、その発生源はまぎれもなく、木場だ。
「あっ、あのその……だ、旦那ぁ!」
お湯の用意ができやしたので、そのっ———早くですねえ、と和寅が妙にあせって木場をせかす。木場もそそくさと立ち上がって、それに続こうとするけれど、そうはさせるか!
「おい、ちょっと待てよ———木場修!じゃなくって、修ちゃん!」
「!」
修ちゃん、とわざと呼びかけてやる。すると木場は心底嫌な顔をこちらに向けてきた。ふふん、やっと僕を視界にいれてきたか!遅いけどな!
「……なんだよ、礼二郎。手前」
「いい格好をしてるじゃないか、うん?」
褒めているんじゃないぞ!と続けてやれば、和寅があのっ、先生!と割り込んできた。
「なんだ、和寅」
まだそこにいたのか、と少し呆れた。しかし、和寅はひるまずに言葉を続けてくる。
「こっ、ここはあっしに免じて———納めて下さいよ、どうかひとつ!」
「……何を言っているんだ、手前?」
「誰がお前にメンコしなきゃ駄目なんだ?」
和寅の言葉へほぼ同時に、僕と木場の声が重なった。その意味もお互いに捉えきれていない。
「いや、ですからね……先生。旦那を怒らないで下さいよ?旦那もちゃんと先生に詫びいれて!」
「だからどうして?」
「詫び、だと?」
続けられても、やっぱりその意味がわからない。わかるか?と木場が声もなく訊ねてきても、僕は知らないと首を横に振る。
「どうでもいいから、早くそのニオイを何とかしろ!」
「ニオイ、だと?」
「せ、先生っ!」
僕の言葉に、木場は怪訝そうな顔をする。そして、和寅は妙に顔を引きつらせていた。
「……おー、確かに臭せえな」
すまねえすまねえ、と木場は自分の腕を鼻に近づけて言う。
「わ、わかってらしたんですかい?」
「一瞬は気づかなかったがな!なんだ、その薄暗い所は!油断するにも程があるぞ、水をぶっかけられて情けないな」
「……言うなよ、この馬鹿!」
「間抜けに馬鹿と言われたくない!いや———刑事というヘンタイにか。相変わらずの捜査とやらか?」
「ったりめえだ!それが俺の仕事だからな」
「ふん、ご苦労な事だ」
そして、お前は知らないんだ。お前の無茶な仕事ぶりについて心配している僕を……まあ、別にいいけれど。
「は?お仕事……ですって?」
「おう、そうなんだよ。売人のイロを探しだすのに苦労してよう……まあここでするハナシでもねえがな」
「イロ、ですって?」
「あぁ、写真の女だな。見つかっているじゃないか?」
「見つけただけじゃ収まらねえんだよ」
「ふうん」
面倒くさい、と言えば、手前は気楽でいいやと木場が言った。ちょっとその言葉は心外だ。
「いいんだよ、手前は気楽なままで。こんな苦労は俺が引き受けとくからよ」
そして、相変わらずの言葉で〆てくる。背負い込むのが本当に好きなんだな、修ちゃんは。
「あぁ、なーんだ。そうでしたか」
「……なにがだ、おい?」
「いやあ、あっしはびーっくりしちゃいまして。だってね、珍しく朝から旦那が、お疲れの顔をしてこちらに顔を出すんだし、その上……えらいニオイさせていらしたもんですから」
「驚かせて悪かったな」
「いやもう、てっきりあっしは———」
「てっきり、なんだ?」
何をこいつは思ったんだろう。どうせろくなことじゃ……
「旦那、朝帰りなすったのかと」
「な、なんだとコラ!」
「朝帰り?」
思わず声が出てしまった。本当にロクな事を思いつかないな、和寅……
「なんで俺が朝帰りで、神田に寄らなきゃならないんだよ!」
「いや、旦那ですから」
それもアリかなぁって、と和寅は言い切っている。まったく、こいつは木場の何を見てそんな事が言えるんだろう。
「そんなコト、あり得るわけがないだろう?」
「おや、先生。言い切りますかね」
「あぁ、言うさ。なぁ、修ちゃん!」
「だから、そのちゃんづけは止めろって……」
馬鹿野郎が!と木場は言い捨てて、風呂場に向かってしまった。
◇□◇
うっとおしい緋襦袢をぬぎすてて、風呂場に入る。これで色々と納得が出来た、というのはやはり遅すぎるんだろう。朝帰りだなんて、俺は思いもつかなかった……
「まぁ、確かにな」
ざばりと体に湯をかけて、息をつく。そう思われているなら、それでよしとしておくべき、なんだろう。姑息な言い訳を作ってまでも———戻りたい場所、逢いたい顔があるなんて、他の奴等には勘付かれたくもない。
お前だけが知っていればいいんだから
「……!」
ずいぶんと、惚気めいた事を思えるようになったものだ。連日の疲れがここに出たのか、それとも単に礼二郎のツラをみて気が緩んだのか———まぁ、どちらでもあるんだろう。
とりあえず、今は風呂だ。体も気持ちもさっぱりさせて、あの人形面を拝み直そう。

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