◆◇◆
風に冬の気配はもう感じられない。日毎に柔らかな日差しは確かに次の季節を運んで来る。
榎木津も、季節に合わせてゆっくりと動き始めた。相変わらずの庭先の寝椅子にもたれて、今は絵を描いている。
「リハビリに丁度いいんじゃないか?」
放心した様子で一日を過ごす榎木津を心配して、というより業を煮やして兄が仕事を手配したのである。無理はするなと言い添えられたが、これ以上父はともかく母を心配させるなという含みがあった。榎木津にも母に心労をかけさせるのは、生まれた時ぐらいで十分だという自覚は持っている。
次第に仕事は増えてゆき、榎木津の絵に惚れ込みわざわざ指名する作家も現われ、傍から見れば順調そのものではあるが‥‥‥時折、ぼんやりとした様子を隠せない。
「‥‥‥」
ぱたり、と鉛筆を写生帖に落として目を閉じ、深いため息を榎木津はつく。
「あの馬鹿‥‥‥。死んだのかな‥‥‥」
初めて榎木津は胸に棲む不安を言葉にしてみるとその言葉は意外とすんなりと耳に入り込んでゆくのに榎木津は驚き、動揺を隠せずゆっくりと体を寝椅子に横たえた。日差しから目を守るように額に手をに載せて、再びつぶやく。
「死んだ‥‥‥のか?」
風が吹く。木々が揺らぐ。
手から滑り落ちた写生帖がぱらぱらと、芝生の上でめくられてゆく。
「誰が、死んだって?」
「‥‥‥!」
その声に榎木津は硬直して、耳だけがその気配を追う。
ゆっくりと、近づいてくる。
榎木津はその確かな気配を確かめてから、ゆっくりと目を開け、顔を覗きこむ人物を確認する。
「よお」
木場がそこにいた。静かに笑っている。陽に焼けて、酷くやつれて、四角い顔の輪郭がますます骨っぽく、四角くなっていたが、顔つきそのものは決して荒んでいなかった。
榎木津はゆっくりと両手を上げて逆さまに覗き込む木場の顔に触れた。頬から耳へと指先に力をこめて触る。木場は榎木津にされるがままにまかせて、眩しいものをみている時のように目を細め、すこしくすぐったい様子を見せた。
「‥‥‥生きているな」
ようやく榎木津は言葉を口にする。
「幽霊じゃねぇぞ」
木場の手が榎木津の顔に降りてくる。骨ばった指の感触に榎木津は思わず眉をひそめれば、微かな土の臭いを感じた。南方の土の臭い、血と死臭が染み込んだような土の臭いだった。その手に榎木津が手を添えれば、木場は榎木津の指を自分の指に絡ませる。昔からの木場の癖だ。そして、ぐい!と榎木津はその手を掴んで引き寄せた。
「うわ!」
体のバランスを崩し前のめりとなって、肘かけに顎を木場は落とした。榎木津の耳元に木場の荒い息が伝わる。榎木津は首を捻って木場に顔を向けると、奇麗に並んだ白い歯が見えた。ぎり、とその歯をかみしめて木場は唸っている。
「なんだ、だらしがない」
「煩せぇな‥‥‥痛てぇもんは仕方がねえだろう?」
榎木津の腕をほどいて、木場は寝椅子にもたれるように芝生の上に座る。肘かけに今度は榎木津が顎をのせて座りこんだ木場を上から覗き込んだ。
「ふん!僕を待たせた罰だと思え!お前はいつだって僕を待たせるからな」
にやりと榎木津は笑ってみせた。木場はふんと呆れて息をつく。
「‥‥‥手前、かなりしつこいな‥‥‥」
「当り前だ!この僕を六時間も待たせる愚か者はお前が最初で最後だからな!」
「‥‥‥」
木場には返す言葉もない。ふう、と息を吐いて空を仰いだ。その様子を見て榎木津は続ける。
「覚えているならそれでいいよ。お前には一応学習能力はあるらしいから」
昨日別れたばかりのように榎木津は木場を日常にたぐり寄せる。そして、その強引なペースに木場も無意識のまま巻き込まれて段々と昔の調子を取り戻していた。
「‥‥‥おい、手前なぁ‥‥‥」
木場も反論を試みる。しかしそれは叶わなかった。たった一言で榎木津はそれを押さえ込む。
「おかえり」
静かに榎木津は言う。その言葉に木場は驚きの表情を見せ、そして‥‥‥木場はなにも言えなくなってしまった。榎木津は穏やかな表情で木場を見ている。
ふわりと風が二人を包みこむように優しく吹き付けた。
もうじき、花咲き乱れる頃になる。

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