◆◇◆
そこには全てが存在する
全部を一瞬のうちに
感じ取ることが
できる
◆◇◆
国が破れても占領されても、時間と空気は流れてゆく。狂気から醜悪へと時代の空気は若干変化しつつも、人は生きている。そして日常は静かに過ぎてゆく。
冬の名残を風は今だにもっていたが、日差しは春を思わせた。榎木津はこういった兆しの頃を好んでいる。庭で寛ぐにはまだ気が早いが、藤の寝椅子に長々と身を伸ばして晴れ渡る空を眺めて半日を過ごすのが、このところの榎木津の日常である。風が少し長くなった榎木津の髪をなぶって流れていった。
遠回しに主治医が左目の失明を告げたことについて、榎木津はなんら感慨をもたなかったが、予測のつかない「おまけ」がついてきたのには困惑をした。光を捕えない左の目が捕えるモノ、それは。
「どうしてぼくにしか見えないの?」
幼い昔、父に母にそして兄に尋ねたモノが頻繁に見えてくる。船酔いを思わせる不気味な感覚が榎木津を襲う。
「他人の記憶ですね」
生意気な後輩がしたり顔で定義した『それ』は、なまやさしいものではない。自分自身が囚われてゆくその恐怖感を表現することは不可能だった。そして、どうであれ榎木津自身のなかに『それ』は存在している。昔より、多少『それ』はクリアーに視えてしまう。それだけの事であるのだが。
「ふう」
乱れた髪をかきあげながら少しだけ自分の事を考える。‥‥‥視えてしまうという体質は、何らかの歪みを生ずるものであるようだと他人事の様に榎木津は思うのだった。
例えば、物事に淡泊すぎる点。他人はそれを「飽き性」だと非難をする。
「人間」に対してさほど興味が持てないでいる点。もっとも「人嫌い」だとわざわざ公表して拒否するほどの几帳面さも持ち合わせていないから、榎木津の周囲には常に人が集まっていた。
しかし‥‥‥
華族という身分。
父の財力。
榎木津の容姿。
他人が榎木津と知遇を得たがる所は、端的にいえばこの三点に尽きる。他人は榎木津の事を知らなくてもよかったと言っていい。だから、榎木津は相手の望むままの仮面をつけて接する。それは生まれながらに身についた社交術であった。
時々、気紛れに混乱を引き起こして見る。簡単な事だった。
「視えたモノ」をそのまま言葉にすれば済む。
(礼二郎さんはすこおし変わったお子だ)
囁かれる声と避けられる目。去るものは追わない。それだけの事だ。
孤高でいることは苦痛ではなかったが、物心ついたころから抱く疑問がある。
「ぼくがとうさまの子でなくっても、好いてくれる人はいるのかしら?」
「礼二郎は礼二郎だろう?」
まだ声変わりのする前の木場の幼い頃の声。すると出会って間もない頃か?
「‥‥‥変だとは思わないの?」
思わぬ反応に正直な所、榎木津は驚いた。
「なんでだよ?」
まっすぐに榎木津を見る。榎木津はなにも答えられない。大きな目を見開いてただ、木場を見つめていることか出来なかった。
「‥‥‥泣くなよ。俺が泣かしたみてえじゃねえか」
「ぼく、泣いてなんかいないよ」
「嘘言え、ホラ」
そっと木場は榎木津の顔に触れて、目元に指をやる。そして親指に大きな水滴を載せて見せた。
「‥‥‥な?」
困ったような顔をして木場は榎木津の顔を覗き込んだ。
「そんな事を言う奴なんか、気にするなよ。俺は礼二郎が好きだよ」
そして、手を取った。その力強さ、確かさは他の誰にもないものだ。きゅ、と手を榎木津は握り締め、木場の顔を見た。にっと木場はそれに笑って応じ、その手を握り返す。
「‥‥‥‥‥‥」
復員のち、父と兄のコネを最大限に使用して陸軍の情報資料を片っ端から漁ったものの、木場の行方を確認するまでには至らなかった。生きているのか、それとも‥‥‥
ちらり、とよぎる予測を榎木津は頭を振って否定する。もしも「そう」であったとしても、必ず榎木津の元へ訪れなければならない筈だ。そして、今だにその気配はない‥‥‥。
奇跡を望むつもりもなければ、ありえないことを願っているつもりも榎木津にはない。ただ、薔薇の木にその花が見事に咲き誇るように、なるようにしかならないことを待っている。
待つことは嫌いだった。しかし、こればかりはどうしようもない。

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